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  • Kumi Umuyashiki

Turiya: トゥーリヤ(4番目の意識状態)

更新日:2月4日


今日は "Turiya(トゥーリヤ)"という「4番目の意識状態」について、クラスの補足としてブログを書くことにしました。


Steveも言っていましたが、マインド(思考)で理解するのはとても難しいことかもしれません。


例えば、カレーを食べた経験がない人に、カレーの味を説明するのがとっても難しいのと同じようなことなので、頭で理解するのは困難かもしれないけれど・・・。


瞑想の中で「体験」として起こってくると、「このことか」と感じるようになるだと思います。


また、「意識側に留まる」という表現がわかりにくい、という点もあるかもしれません。

別の表現をしてみると、「意識の階層が変わる」ようなことではないかと思います。

意識の階層が変わると、世界の見え方が変わってきます。


例えば、今まで赤い色メガネをかけて世界を見ていた人が、そのメガネを外した瞬間、同じ世界が別世界に見えた、というような体験を想像してみてください。


世界自体は変わっていません。

変わったのは、「赤いメガネ」を外したということなのです。


私たちがかけているメガネというのは、肉体、思考、感情、記憶、歴史、文化、欲望などの産物であり、私たちはそういったフィルター、つまりそれぞれの色メガネを通して世界を見ているのです。


だから、まったく同じ世界でまったく同じ生活をしていても、それを「素晴らしい世界」と受け取る人と、「つまらない世界」と受け取る人がいます。


だけど本来、まったく同じ状況にあるのであれば、「世界」自体はひとつの変わらないものです。

それぞれの人が持つ解釈の仕方が異なるため、同じ世界でも、人の数だけ、異なった受け取り方(色メガネ)があります。


瞑想の練習をすると、そういった色メガネが自然に外れていきます。


普段の私たちは、「肉体、思考、感情、記憶、歴史、文化、欲望といったものが、自分だ」と思いながら生活しています。


これは間違っていることではなくて、確かにそういったことに基づきながら生活しないと、日常生活がまわっていかないような社会なのです。


だけれど、瞑想をしている時に、少しの時間だけかもしれないけれど、「肉体、思考、感情、記憶、歴史、文化、欲望といったものが、自分ではない」という意識状態になることがあります。


この意識状態は「自然に起こってくる」ものなので、頑張ってそこに到達しようとすると、頑張ることが障害になってしまうことがあります。


できることとして、心(思考や感情)を静かにすることがあります。

そのために集中テクニック(マントラを唱えたり、呼吸やチャクラに意識を向けたり)を使うのだけれど、集中テクニックばっかりに囚われてしまうと、「テクニックの練習」で瞑想が終わってしまうため、テクニックに拘りすぎることも、しない方が良いのかもしれません。


瞑想の中では、テクニックを使ったとしても、それはいずれ手放して、その後に「自然に起こってくる」ものに、委ねていきます。


そして自然に「肉体、思考、感情、記憶、歴史、文化、欲望といったものが、自分ではない」という意識の状態になると、色メガネが外れていった、ということです。



この色メガネを、別の比喩的な表現で表してみましょう。

今、私たちが、「水風船」になったと思ってください。

水風船の中には、水が入っています。

水風船はゴムでできていて、水風船には色々な色がついています。


赤い風船、青い風船、黄色い風船。

その中に、水が入っています。


「風船」は色メガネみたいに、私たちが世界をどう見ているか、を決めています。

例えば、赤い風船の中にいる人は、赤い世界が見えるだろうし、青い場合は、青い世界です。

そして、これらの風船の中には、水が入っています。


今、自分が「中に水を含んだ赤い水風船」だと想像してください。


そして、大きな海の中に、その水風船は存在しています。


この大きな海は、全体性として、常に、そこに存在しています。

その中に、「赤い水風船」という自分が存在しています。


「赤い水風船」という自分は、「肉体、思考、感情、記憶、歴史、文化、欲望といったものが、自分だ」と思いながら、海の中を漂っています。


どう考えても、自分はここに広がる海のような、自由であらゆる可能性を秘めた、永遠の存在とは思えません。


そんな「赤い水風船」である自分が、瞑想の練習を開始しました。


練習を重ねていくと、いつしか、「肉体、思考、感情、記憶、歴史、文化、欲望といったものが、自分ではない」というような意識状態に達します。


これは赤いメガネが外れて、世界がありのままに見えるようになった状態と同じです。


赤い水風船に置き換えてみると、「赤い風船が破れてなくなった状態」と言えるかもしれません。


風船がなくなったわけなので、風船の中の水(自分)は、海の一部となります。


「赤い風船」というフィルターが剥がれたことによって、自分はここに広がる、自由であらゆる可能性を秘めた、海の一部(永遠の存在の一部)として存在していたことに、気がつきます。


この「自分は自由であらゆる可能性を秘めた永遠の存在」という意識状態が、"トゥーリヤ"という「4番目の意識状態」です。

そこに留まることを、「意識側へ留まる」と表現するわけですが、わかりにくいかもしれないので、「意識の階層が変わった」と考えてみてください。



海はずっと、常にそこにあった。

その中に自分は「赤い水風船」として、漂っていた。


海の中では、「ありとあらゆること」が、起こっている。

すべてがその海の中で起こっていて、それは、生まれる、生きる、老いる、死ぬ、喜び、苦悩、悲しみ、と、「ありとあらゆることが」、起こっているのです。


そして人は、その「ありとあらゆること」の方ばかりに気を取られて、生きています。

それらの「ありとあらゆること」は、永遠に変化し続けます。


だけれど、その「ありとあらゆること」が起こってくる空間(この例え話では "海")は、変わらずいつも、そこに存在しています。


瞑想で意識が "トゥーリヤ"という「4番目の意識状態」になると、自分は「海」であり、同時にそこに起こってくる「ありとあらゆるもの」でもあるのだと、気がつきます。


つまり、「自分はすべてのものだった」という意識状態になるのです。



そうすると「自分という意識が消滅」します。

= "Ego dissolution"(自我の消滅)


よって、自分と他者という概念も消滅します。


時間や空間という概念が消滅します。


そしてそこに、「ありとあらゆること」が起こってきていても構わない 自由な空間が広がり始めます。


お鍋の中に沸騰している水を想像してみてください。

沸騰しているので、水がポコポコ、水面で泡を立てています。

それを見ていて、その泡ひとつひとつについて、真剣に考えたり、悩んだりは、しませんよね?


意識の階層が変わってくると、人生で起こってくる「ありとあらゆること」が、そんな泡のように見えてきます。


ラマナ・マハルシという聖人がいます。


彼の言葉に、

「来るものは来る、過行くものは過ぎる、なぜそれについて悩むのか」という言葉があります。

"Let what comes come, let what goes go, Why do you worry?"



私たちが沸騰するお湯の泡について悩まないのと同じように、意識の階層が変わった(第4の階層)時には、人生のあらゆることに対して、「構わない」という心理状態になっていきます。


それが映画の「白いスクリーン側」として表現される由来です。

スクリーンに映し出されるストーリは、「あらゆる出来事」、「泡」のようなものですが、白いスクリーンは変化せず存在しています。


変化しない方の空間は可能性に溢れています。

そこに触れ合えた時に、祝福や恍惚感を感じ、自我は消滅します。


ラマナ・マハルシに、

「他者をどう扱うべきか?」と尋ねた人がいました。

マハルシは、

「他者は存在しない」と回答したといいます。


これは自分と他者を分け隔ててはいけないというような、倫理的な考えからの回答ではありません。


目覚めた人の意識状態は「自分はすべてと同一」というところにあり、だから「他」という観念が存在しなくなるのです。


これが、"トゥーリヤ"という「4番目の意識状態」です。



ヨガでは体を3つに分けて考えます。


粗大身(物理的な体:起きている状態)

微細身(感情・記憶・欲望など:夢の状態)

原因身(信じてきてしまったもの:深い眠りの状態)


"トゥーリヤ"は、これら3つの体を超越した意識状態と表現されますが、「すべてのこと」を包括するため、実は3つの体も "トゥーリヤ"の中に包括されています。


"トゥーリヤ"のことを、アートマン、ソール(魂)、セルフ(Self)と呼ぶこともあり、それはどこか別の場所に存在するものではなく、常にそこにずっとあったもので、それが本来の自分だったと、瞑想の中で気がついていきます。


"The One you are looking for is the One who is looking"

「あなたが探している者は、自分自身だった」というのは、そういう理由からです。



このあたりまで来ると、眉間に皺を寄せて考えはじめるのが普通の反応なので・・・。


ここでSteveならば、


「さあ、そんなことはすべて忘れてしまいましょう。そのままの自分で良いので、ただリラックスして、座りましょう」

と、冗談交じりに言うかもしれません。

彼のクラスを受けたことがある人は、想像できるはずです(笑)


私は「学んだことはすべて捨ててしまいなさい」と彼に言われ続けてきました(笑)


やっぱりここで書いていることは、思考レベルのことであり、言語で理解している限り、思考なのです。


「体験」が何よりも大切なので、知識を増やすことが、体験の妨げにあるのであれば、そんなことは捨てちゃいなって、真面目な私は、Steveに言われ続けてきました!(笑)


なので、真面目になりがちな人は、話半分で読んどいてもらったら良いかと思います。


もうちょっと真面目さを刺激してから手放したい人は、アドヴァイタ・ヴェーダンタについて書いたブログも読んでみてください。


読んでいて意味がわからなかった人は、きっと意味がわからなかった方が良かったのね、くらいの気持ちでいてください。


すべて、そのままで。 Hari Om Tat Sat.


オンライン瞑想
なぜそれについて悩むのか

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