Kumi Umuyashiki
本当の愛 - Happy Yoga: Reason 2 (和訳) #1
Steve Rossが執筆した "Happy Yoga" を、部分的に翻訳しています。
今回は第一章に当たる "Reason 2: "YOU CAN HAVE TRUE LOVE" より、P44~P47を所々要約して、和訳しています。
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Happy Yoga by Steve Ross
WANTING LOVE VS. BEING LOVE
愛を求めることと、愛であることの違い
「愛されたい」と感じることと、「愛として存在すること」には違いがある。
ほとんどの人がこの違いを体験することなく暮らしている。
愛として存在することに、努力は必要ではない。
反対に、パートナーに愛されたいとか、自分のニーズを満たされたいとなると、自分もパートナーも大変な努力をすることになる。
欲望を抱えることって、渦を巻く海で泳ぐのと同じようなことだ。
波によってあっちやこっちへと流され、振りまわされる。
そのうち嵐がひどくなりすぎて、呼吸さえもできなくなる。
欲望が満たされたら、別の欲望が5つくらい出てきたりして、いずれ欲望の津波に飲み込まれていく。
溺れて、疲れ果てて、欲望に囚われることになる。
「不足している」と感じるから、「欲しい」という感覚が生まれる。
もう一度書こう。
「不足している」と感じるから、「欲しい」という感覚が生まれる。
この「不足している」って感覚はどこから来るのか?
エゴ(Ego)から生じるんだ。
エゴは、「自分は分離した孤独な存在」と感じている。
この、分離されている、って感覚のせいで、自分は不完全で、寂しい存在で、空虚だと感じてしまう。
エゴという言葉を "我が強い" っていう意味で使うこともあるけれど、それはエゴのひとつの側面であって、エゴは色々な形で表れてくる。
ヨガの練習者にとって、自分を「分離された自分」として自己同一している場合、それをエゴと呼ぶ。
世界や他者から分離している私。
「私対世界」とか、もっと良くないのは「私たち対あの人たち」、のような感覚。
そしてこのエゴって、とてもしつこい存在なんだ。ヨガのクラスでも、エゴは出現したりする。
例えば、ヨガスタジオで自分のマットを置く場所を決めていて、そこに別の人がマットを置くと、「そこ私の場所なんだけど」というような会話になって揉めたり・・・。
エゴは、「自分が正しい」って思っていて、それがすべての問題に繋がる。
エゴは真実とか優雅であることなんかには興味がなく、「自分が正しい、相手は間違っている」ということにしか興味がない。
別の人が間違っている、と感じるってことは、そこに「分離」が生じる。
ヨガでは、「あなたはそれそのものだ」という表現をしたりするが、「それそのもの」というのは、「永遠の存在で、源であり、存在するものすべて」という意味だ。
でも、人は "目隠し" されてしまったみたいに、「自分は分離された小さな存在だ」って信じて生きている。
この目隠しが、愛と幸せを感じるための、大きな障害になってしまう。
ヨガの賢人は、金(ゴールド)を使ってたとえ話をあげている。
金は溶かせば色んな形になる。指輪や腕輪みたいな。でも、どんな形になっても金は金だ。
金が「自分はただの腕輪」と嘆いたりしない。
でも人は、「自分はただの人」だって思っている。
この、自分は分離された存在って感覚に対して、本当はそうではないってことを、論理的に説明することは無理なんだ。お金をかけても、感情やメンタルに訴えても、それが理解できない。
理解する方法は、「自分は分離されておらず、全体の一部だ」という感覚を体験することなんだ。体験することで、「自分は個別のただの人」って感覚を超越することができる。
それを体験するまでは、人は分離した孤独な存在として、苦しみと喜び、取得と喪失、裕福と貧困、愛と憎しみなど、エゴ的なサイクルを繰り返して生きることになる。
近い人との関係の中で、相手に自分を満たしてもらおうと思うことも、同じこと。
それは外的なものから、永遠の愛やハッピネスを得ようとすることだ。外的なものはそれらを与えてくれる力はないのにも関わらず。
相手から愛を得ることはできない。
愛は、自分の内にあるものなんだ。
もちろん人間関係も、愛を感じる場とはなる。でも、相手によって愛が与えられたと勘違いはしないで欲しい。
好きな人ができると、お互いが心を開いて、それは素敵な経験をすると思う。
でも、その相手により自分が完全となり、一生その人に永遠に続く愛や自分を満たしてもらえるように期待することって、それは大変な約束事をすることになる!
でも、僕たちが生きる文化では、相手にそれを求めるのが当然みたいになってしまっている。本当はそんなの機能しないのに。そういう社会通念の中で生きてることで、大変な期待をお互いにかけてしまってるんだ。
相手に自分を満たしてもらうっていうのは、愛ではない。
それは「相手に自分を満たしてもらおうって思っている」という状態なだけだ。
じゃあ、愛ってどんなものなんだろう?
愛は受け入れること。
愛は、他の人がそのままのその人であっても良いとすること。
愛は祝福を感じること、そのままの相手を受け入れ、世界を受け入れ、自分を受け入れること。
愛は燃える太陽のように、燃えるためだけにある。
輝くためだけにある。
見返りを求めないもの。
「愛であること」から得られる見返りがあるとしたら、それは「愛であれること」なんだ。
そういう状態を経験したことがないのであれば、たぶん今まで本当に愛した経験がないのかもしれない。
愛は求めない。
愛は今の状態に抵抗しない。
愛には制限はない。
愛は裁かない。
愛は相手をコントロールしたり操作したりしない。
一般的に「愛しているから」求めたり裁いたりしても良いとされてしまうところがあるけれど、それは、愛を勘違いしている。
だから、誰かを求める時、何かを求める時、それは「愛」じゃないって、知っておきたい。
それは、「欲望」であり、「欲しがること」で、愛ではないんだ。
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